自己肯定感と実力

受験は実力か、それとも運か

 

自称進学校からそれなりのレベルの大学に合格したものの中には、自分の実力ではなく運が良かっただけだと思う人も少なくないだろう。

運も実力のうちというが、偏差値や学歴に関わらず優秀な人はいるし、、それに比べて学歴しかないやつの薄っぺらさといえばμどうしようもない。

うううううう。

でもさ、でもでも、それに関しては濃い経験が足りないだけやん。

何かに一生懸命取り組み続ければできるようになるって。大丈夫。

生きていくことのセンスは、志望校に合格するセンスを包含しとる。学校という世界の外側で生きていくことは、求められるものが遥かに大きい。

困っちゃうよね。

本当に。

 

でも、

逆にね、今までどのくらい努力をしてきたかってことよ。今まで期限ギリギリで出した課題のように、上部だけで終わらせてきたことのなんと多いことか。

つまり本当の努力をしていないわけですよ。でもね、それって適当に終わらせる技術を積み上げてきたってことじゃないですか。

社会に出て求められるものが増えたとき同じようにやって成功するわけないじゃないですか。なので、幸せを大切にしながら、効率よくこなせる努力をしていきたいと思いまーーす!

 

世界から逃げ出したい時には

生きていきたい。

 

でも、世界がしんどくて、いろいろな戦線から離脱したくなることがある。

例えば、仕事でミスをした時。恋愛で一歩踏み出せない時。日本の政治に絶望した時。

未来に希望が持てなくなった時。

 

戦線離脱は、社会的な孤立を招く。

社会的な孤立は、金銭的にも精神的にも豊かに生きることから遠ざかる。

そんなことになったら、「生きていく」ことからも離脱してしまいたくなってしまうんじゃないか。

苦痛ではなく、幸せだけを感じていたいだけなのに。

世界を変えて行こうなんていう気概と変えられるなんていう希望はいつの間にかなくなってしまったし。

 

将来が怖くて怖くて、どうにもならない時がある。

どうにもならなくて怖いけれど、信じてみることにする。

変えられる未来もあるのだということを。

失敗するか成功するかはわからない。

でも、きっとどうにでもなる。どうにでもなるのだ。死にそうになったって助けてくれる人はいるはずだ。

 

人間は落ち着くところに落ち着くらしい。だから、幸せを求めて、苦しさにも耐えながら、小さなことに癒されながら。

少しずつ進んで行こう。

 

世界から逃げ出したい時には、途方もない未来のことではなく、「今」を幸せにしていくことから初めて行こうか。

紅茶を入れるとか、寄り添ってくれる音楽を聞いてもいい。

たとえ気休めにしかならなくても、幸せな今があることで、幸せがある今を積み重ねていくことで、見える世界が変わっていくと信じて。

 

 

クリスマスミラクルを求めて

もうすぐ12月。

今年もクリスマスシーズンがやってくる。

 

昨夜は夜遅くまでクリスマスを題材にしたラブストーリーの映画を見てしまった。

クリスマスミラクル(クリスマスの奇跡)に酔いしれたまま眠りについたものの、今日は寝不足で頭痛に悩まされ、特に何もせず1日が終わろうとしている。

 

恋人がいない私にクリスマスミラクルは起こるのだろうか。サンタさんはクリスマスを過ごす相手を贈ってくれるのだろうか。

去年も一昨年も待っていたが、いよいよ25日までに恋人はできなかった。

 

だから今年は、私がサンタクロースになって、世界中に愛を届け、奇跡を起こそうではないか。ついでに自分自身にもプレゼントを。

愛を届けるといえば博愛。博愛といえば神。

しかし自分のような人間が神になるなど到底できないだろう。

 

ならばなろう、紙に。紙といえば、絵画にも小説にも楽譜にも使われる芸術のための資源であり、会社の重役も本当に大切な情報は紙にのみ残しておくという。

大人から子供まで、広く愛される存在、それが紙なのである。

私は紙となり、世界中の情報を体に記す。

 

人類の歴史を鑑みると、情報が歴史を作ってきたと言って過言ではないだろう。その情報を載せていたのは紙。紙が世界を作ってきたのである。

ここで、神=紙の方程式が成り立つことがご理解いただけるだろう。

さあ、世界中のクリボッチたちよ、今こそ紙となり、世界に平和をもたらすのだ。

 

 

エセ哲学ブログ

みなさんはじめまして。

碧と申します。

 

さてさて早速ブログを書いていみているわけではありますが、

全くの無計画で初めております。(大丈夫か?!)

 

何を書くかも決めてません!

いつまで続くかわかりません!!

ではなぜこんなことをしているのかってそれは、吐き出したい言葉たちを吐き出すためです。

日記にでも書いておけと思われるかもしれないが、日記は自分のことを知っている誰かに読まれてしまうと思うと耐えられないものがあるのだ。

SNSがあるじゃないかと思われるかもしれないが、140文字じゃ足りなすぎるし、映える写真も特に取らないもんで。

(とかいいいつつ数ヶ月後にはしれっと商品紹介とかし出してたらどうしよう)

 

ひたすらに自分の悩みとかこだわりとか「エセ哲学」を連ねていく予定です。

今日は哲学要素ひとつもなかったな。

もしかしたら読者を想定して書くのもこれが最初で最後かも。